高らカニ

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いまこそ改めて「中の人」について考えようよ

最近映画『THE FIRST SLAM DUNK』を観まして、めちゃくちゃ面白かったので原作スラムダンクが好きでアニメーションが好きな人は是非観てほしいなと思うわけですけども。

 

この映画を観たことで今まで以上に考えるようになったことがあります

それは「アニメキャラの『中の人』って誰なんだろう」ってことです

 

「中の人」というのは色んな場面で使われる言葉であり、場面によって指す人物が異なることは多いのですが、ことアニメ界隈においては十中八九『声優』を指します

しかし正直に言うと、私は『中の人=声優』という図式に違和感を覚え続けてきました

 

「声優の音楽ライブは声優のライブであってアニメキャラが歌って踊っているわけではない」

「声優のラジオは声優のラジオであってアニメキャラが喋っているわけではない」

「声優をバラエティ番組に呼んでキャラクターのセリフを喋らせるな」

 

私はそう感じるのが普通だと思っていました

しかしどうにも世の中にはそうは感じていない人が多くいるようです

このギャップについて私は軽く10年以上考えてきたことがあるので、せっかくの機会だしここらで発散させておこうと思いました

(一部懇意にしている友人にもここの考え方が私と大きく異なる人が存在しているので、できればこの文章は読まないでほしいなと思っています)

 

何を以て「中の人」と呼ばれるのか?

『声優が「中の人」と呼ばれるのは、そう呼んでいる人が声優とキャラクターを(一部)同一視しているからに他ならない』

これが私の出した今のところの結論です

キャラクターの印象を大きく決定づける要素として「見た目」「声」「性格」などが挙げられると思います

そういう意味で「声」を充てている声優がキャラクターの印象の大部分を左右するということは確かでしょう

しかし逆に言えば声優は「声」しか担当していません

「見た目」と「性格」については声優とは関係がない部分になります

原作のあるアニメであれば原作者、もしくは専属絵師が容姿(キャラクターデザイン)や性格を決めているでしょう

他キャラクターとの絡みによってどのように物語が進んでいくか決めるのも原作者や脚本家です

それに加えて個々の場面でキャラクターがどう動き、どんな表情を見せ、どんなセリフを口にするのかはアニメの監督、演出、キャラクターデザイン、原画マンなどによって決定されていきます

そこに声の演技を加えるのが声優の仕事なのです

もちろん声の演技によってキャラクターの内面や場面の印象も変えることができますが、それらは監督や演出と合わせて考えられていくものであり、決して声優だけで決まるものでもありません

 

ではなぜ声優だけが「中の人」と呼ばれているのでしょうか

今挙げたような人たちが全員合わさって一人のキャラクターを作り上げているのだから、全員合わせて「中の人達」ではないのでしょうか

 

声優のライブは声優のライブ以外の何物でもない

ここでいう声優のライブというのは、声優がキャラクターに扮して歌を歌いMCをするタイプのライブということを伝えておきます

アイドル系アニメやゲームにおいて顕著ですが、アイドルキャラクターの声を充てている声優がそのキャラクターの衣装を着て、そのキャラクターとして舞台に立って歌って踊るライブがよくあります

この辺の話については、私は全くの素人であり一度も目にしたことがなく、詳しくは語れないので、すでにいろんな方が自分の意見を文章化してくれているのを一部引用させてもらって楽をすることにします

 

以下は声優ライブに肯定的な意見を持つ方の文章

なぜオタクは声優のライブへ行くのか|フーモア内定者|note

声優にキャラクターを投影し、そのキャラクターがあたかもその場に存在しているかのような錯覚を覚える。そして、そのキャラクターに対して、日頃の愛情をコールなどの応援としてぶつける。そうすることで日常では叶わない、キャラクターへの想いを体現するのです。

 

ふむふむ声優はキャラクターの現実世界への写像(像)であると。その像に向けて感情をぶつけることがキャラクターへの愛を伝える行為の代替となり得るのだとそう考えているわけですね

率直な感想としては「その感情は結局声優にぶつけられているだけじゃないの?」ということでしょうか

極論キャラクターはこの世界に実在しているわけではないので、あなたの感情を受け止められる本人がいるわけではありません

「日常では叶わないキャラクターへの思いを体現する」とこの方はおっしゃっていますが、体現できていません

そしてなにより、「キャラクター」の「声優」への写像というのが結局のところ恣意的でしかなく、これが声優を「中の人」たらしめる理由にはなり得ません

 

次は逆に声優ライブに否定的な意見を持つ方の文章

声優ライブを楽しめないコンプレックス

だって、私の推し推し声優は違う生命体じゃないか。ただ、声を提供されているだけじゃないか推し声優がこんな風に踊ったからといって、私の推しがこんな風に踊るとは限らないじゃないか運営から用意されている以外の言葉推し声優推しっぽく喋っても、それって声優言葉じゃないか。それは、私の推し言葉じゃない。推し声優推しのように喋っているだけだ。

 

お分かりだと思いますが私はどちらかというと2人目の方の立場にいます

2人目の方の文章は先述した「キャラクターの動きや言葉を作り上げるのは声優だけじゃない」という話につながりますね

写像の話に戻るのであれば、「キャラクター」から「声優」への写像単射ではない(もちろん全射でもない)ため、逆写像は成り立ちません

こんな説明で補足になるとは思えませんが、そういうことです

ここら辺の違和感を覚えている人は思ったより多くいるようで、そこに関しては私も少し安心しました

 

(追記)

ここで挙げさせていただいた二方の意見はそれぞれ個々人の意見であり、声優ライブの「肯定派」「否定派」を代表する意見ではないことを、(言うまでもないとは思いつつ)補足しておきます

(追記おわり)

 

ライブではないですがここで声優のラジオについても触れておきます

こちらに関しても私は全くのド素人故少しだけ触れてなんとなく誤魔化すこととします

その昔、シスタープリンセスというメディアミックス作品がありまして

雑誌上で生まれた作品がゲームやアニメ、ラジオ番組へと繋がっていった一大コンテンツなのですが

当然声優はあとからキャラクターに充てられたことになります

そしてその声優がキャラクターとしてラジオをするという流れだったそうです

これはその当時のラジオパーソナリティを務めていた可憐というキャラクターの声優である桑谷夏子さんが、『VTuber可憐の「シスター・プリンセス~お兄ちゃん♡大好き~」#1』の中で言及していたことなのですが

当時は、ラジオのリスナーから「こんなの可憐じゃない」と大バッシングを喰らっていたようです

これは当然ラジオで喋る内容は声優がアドリブで決めている部分が多く、熱狂的なファンからするとキャラクターのイメージとの乖離があったことが原因だったのだと推測しています

昔のオタクは今よりこの辺に不寛容だったのかもしれませんね

(この辺は全部推測なので桑谷さんの発言以外のソースはないです)

 

モーションキャプチャーによる動きと「中の人」

さて、ここで冒頭の話題に立ち返るのですが、映画『THE FIRST SLAM DUNK』では、バスケの試合シーンは全てモーションキャプチャーによる3Dで表現されています

これがすごく臨場感があり面白い部分なのですが、ここではキャラクターの動きというものが与える影響について考えてみることとします

先ほどキャラクターの印象を大きく決定づけるのは「見た目」「声」「性格」などの要素だということを言いましたが、キャラクターの動きというのはその中で「見た目」「性格」に掛かってくるものだと思います

特に「性格」の方の影響は大きく、歩き方や走り方で性格の解釈は大きく変わりますし、そのキャラクターが運動音痴なのか得意なのかなどといった特性も見ることができます

 

SLAM DUNKはいったん置いておいて、例としてプリキュアシリーズのEDダンスについて触れておきましょう

プリキュアシリーズでは第6作目である『フレッシュプリキュア』から、エンディング映像がプリキュア達が3DCGでダンスをする映像になりました

www.youtube.com

 

ダンスはモーションキャプチャによって動きをつけられていて、ここでは実際にダンサーに踊ってもらったモーションをそれぞれのキャラクターの3Dモデルに流し込み、後から細かな修正を加えることで映像を作っています

この場合キャラクターの動きを決定付ける一番大きな要素はダンサーになるわけです

もしあなたが『デリシャスパーティ♡プリキュア』を観たことがなく、初めて観た映像が上のエンディング映像だったとしたら、キャラクターの印象はほとんどデザインと動きのみによって構築されるわけで、「中の人」はむしろダンサーになるんじゃないでしょうか(もちろんそう呼ぶことを推奨してるわけではありません)

少なくとも声優にはならないと思いますね

 

話は逸れますが、このようなモーションキャプチャーによってすべてのプリキュアが画一的にダンスをすることは個人的に違和感を覚えます

ダンスが不得意なプリキュアだっているでしょうに

子守唄で赤ちゃんを泣かせてしまうくらい歌がド下手な相田マナ(キュアハート)がキャラクターソングでは上手に歌っていることに対する違和感なんかとも似ているかもしれないですね

これについての考えも少しあるのですが本題とはかなり外れてしまうので別の機会に

 

まとめ

キャラクターを形成するのには多くの人間が関わっており、声優のみを取り上げて「中の人」と呼ぶ文化にはいささか違和感を覚えます

という話を長々としてしまいました

皆さんはどのようにお考えですか、よければ教えてください

 

別の話

ここで、VTuberの「中の人」は全く別の概念であり、これこそ「中の人」と呼ぶにふさわしいのではないかと私は思います(再び写像の話に戻ると、こちらは限りなく全単射に近い)

だからこそVTuberのキャラ設定やロールプレイ、第三者によって作られた公式アニメなどを観ると「なぜアニメキャラクターと一線を画すVTuberの利点をわざわざ潰すようなことをしてるのだろう」と思わざるを得ないという話ができるのですが、これもまた別の機会にちゃんと書きたいと思います

 

おしまい